この日は兼六園まで行くことにした。
石川県は金沢市にある日本三名園の一つである。
5時30分に京都を発ち、米原へと乗り継ぎに向かう。
北陸本線というこれまた古きよき雰囲気を残す路線を用いた。
敦賀で乗り換えると、あとは風景を楽しむだけである。
目的地には10時過ぎに着くことができた。
世界で最も美しい駅の一つとされる金沢駅。
構内には氷のオブジェが展示されていた。
広々とした構内を抜けると些かどんよりとした空模様になっていた。
駅から兼六園まではバスでの移動となる。
天候を案じつつも、初めての訪問先に心が躍っていた。
バスから降りるとすぐに傾斜の厳しい坂があり、その両端に様々な土産物店が建ち並んでいた。
それらを尻目にえっちらおっちら進んでゆくと、荘厳な庭園が現れた。
これでもかと生い茂る木々の翠と、それらにとけ込む池や小川の蒼が私を幻想の世界へと誘った。
残念なことに天気は崩れてしまったが、雨の庭園というのも思いの外悪くはなかった。
むしろしっとりとした日本的な趣が感じられ、情緒に溢れていた。
頭で考えることをやめ、身体で空気感を味わいつつ、ゆっくりとした時間を過ごした。
海、川と訪れ、庭園の池と、この旅は流れゆく水を見ることがサブテーマのようである。
そう決めていたわけではないのだが、本能的なところで求めていたのかもしれない。
雨天とはいえ、気温は高い。
園内の茶店で、名物・あんころの入ったかき氷を頂くことにした。
素朴な味が懐かしかった。
自然の癒し効果を存分に満喫したところで兼六園を後にした。
土産物店を物色し、なにやら香ばしい匂いを醸し出すおせんべいを購入。
“和”を存分に堪能している。
今度は名古屋へと向かう。
金沢に宿を取っても良かったのだが、翌日栃木の実家へ帰ることが頗る面倒なことになるため、
この日の内にある程度距離を稼いでおこうという魂胆なのだ。
そのためまず富山へと向かうことになるのだが、ここで一つ失敗をする。
どうせなら早く着こうと考えた私は特急はくたかに乗ることにした。
18きっぷを乗車券として、そこに特急券を買い足すことで乗り込もうとしたのだ。
車内改札の方にドヤ顔で提示するも「あっこれダメですねぇ」と返され、乗車券を買わされるハメになる。
18きっぷでは特急を使えないということをすっかり失念していた。
悔しいが致し方ない、特急列車を満喫するほかない。
京都で購入した生八つ橋を頂きつつ、到着を待った。
結局富山までは30分で着いたが、乗り換えまで1時間20分の待ち時間ができてしまった。
そのため駅前を散策しようと思ったが、松山駅より閑散としており散策も何もなかった。
16時10分、今度は高山本線を用いて岐阜を目指す。
山あいを走る列車は活気が少なく、独特の雰囲気を醸し出していた。
道中、外国人旅行客のグループが乗り込んできた。
ただでさえ人の少ない車内がこれまた謎の空気感に包まれた。
彼女らはしばらく談笑しており、その様子を横目でうかがっていると、その内の一人が話しかけてきた。
たどたどしい日本語で千曲川はどこら辺にあるのかというようなことを聞いてきたと記憶している。
彼女自身が所持していた地図で場所を指し示してみせると、嬉しそうにお礼を言って戻っていった。
この旅で様々な方と出会ったが、まさか外国の方と話すとは思いもしなかった。
このようなことがあるから旅は面白い。
彼女らは途中で降りてしまったため最後まで見届けることはできなかったが、無事辿りつけたのだろうか。
途中で猪谷と美濃太田で乗り換える。
高山本線は実に長く、小腹も空く。
富山でますの寿しを買っておいて正解だった。
食料の重要性を知った私は道中おつまみも買った。
これは後々重宝することになる。
高山本線の終点、岐阜には22時ちょうどに到着した。
ここからさらに名古屋へ向かう。
岐阜は大雨だった。
それによりダイヤが大幅に遅れていた。
22時に着いたのにもかかわらず21時57分の列車がまだ発車を見合わせていた。
後続の快速列車も来なかったため仕方なくその各停に乗り込んだ。
車内アナウンスが無機質に鳴り響く。
大雨の影響で運転を見合わせております——。
あと数駅が遠い。
昼食を買ったおにぎりで済ませてしまっていたため無性に腹も空いてきた。
買っておいたおつまみが実にありがたい。
このまま岐阜に泊まってしまった方が賢明か、最悪の考えも頭をよぎった。
その刹那、もう幾度と聞いたアナウンスの内容が変化した。
ようやく運転が再開する。
実質40分の待機時間だったが、疲労困憊の身としては永遠にすら感じられる時間であった。
名古屋は既に雨が上がっており、じめっとした空気がただ息苦しかった。
高山本線内で確保しておいたビジネスホテルへ足早に向かい、崩れるようにベッドへ倒れ込んだ。
最後の気力を振り絞りコンビニで買ってきたカップうどんにお湯を注いだ。
最後の晩餐がカップ麺というのもつまらないが、既に思考回路はショート寸前どころか崩壊しており、
もはや何でもよかった。
窓から覗くムーンライトに泣きたくなった。
長いようでいていざ終わらんとすると短く感じる、そんな旅だった。
それほど濃密で実入りが多かったということだ。
私はゆっくりとこれまでのことを反芻し、噛みしめた。
明日からは夢のひとときから醒め、日常の生活に戻らねばならない。
1秒でも長く浸っていたかったが、いつの間にかまどろみの世界へと落ち込んでしまっていた。