<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="65001"%> 波浪亭贋作|シン・ゴジラを見てきた
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ネタバレ注意
ものっそい個人的な見解です。こういう見方もあるのか程度に。



◯20160808/20160813

大絶賛公開中のシン・ゴジラを見てきた。2回見てきた。そもそもよっぽどじゃない限り劇場に足を運ばない私が2回も見た。それだけ魅力があり考察の余地がある映画だった。単純に同僚や学生時代の教授に勧められたからなんとなく見たのだが、正直圧倒された。凄い。庵野さん凄い。これまで見てきた映画なんてたかがしれてるが、個人的にかなり上位に来ると思われる。一部からはゴジラの出てくるエヴァだったなどと言われているが、ちょっとエヴァからは離れて、庵野総監督が意図したところを考えてみたい。


◯災害と政治

アクアラインの浸水に端を発する今回のゴジラ。新たな海底火山やら水蒸気爆発やらさまざまな憶測が飛び交うもその実態は巨大不明生物。未曾有の事態に政府はどう動くのか。こうした緊急事態でまず思い浮かべるのが、5年前の東日本大震災、そして福島第1原子力発電所の事故。というか核のエネルギーで生きるゴジラは原発そのものの暗喩であることは想像に難くない。「現実対虚構」というキャッチフレーズでフィクションであることを明示しているが、劇中の人々にとってはあれこそが現実であり、政府は国と国民を守らねばならない。

さて、大河内政権はどうか。序盤は危機感のなさが記者会見にも現れ、これは当時の菅政権を彷彿とさせる。「防災服と原稿を用意してくれ」というセリフがあった。原稿はまだ分かる。関係省庁がまとめた文章をマスコミを通じて発表し、国民に説明するのもトップの役目であるからだ(とはいえそれも総理のアレンジで誤った説明になってしまったのだが)。一方の防災服。こちらは緊急事態であるということを視覚的に表現するものでしかない。もちろん、機能的な効果もあるだろうが、ゴジラ被害が拡大している中ではまず一刻も早く政府発表がほしいところだ。

続いて自衛隊の出動。こちらもなかなかゴーサインを出さなかった。作戦の概要を見ても「現場を見ないと判断しようがない」という。これはまぁ、総括する者として当然の反応と言えばそうかもしれないが、現場を視察したからといって状況が好転するわけではないので、下からの報告で判断するほかない。放っておけば事態は悪化するばかりなのだから、先ほどの発言は後々の責任逃れとも捉えられかねない。結局、東官房長官らに押しきられる形で防衛のための出撃を許可したが、それも結果的に作戦中止を命令した。だが、この作戦中止には一国の総理としての矜恃を垣間見た。中止の理由は「市街地に逃げ遅れた人を確認したから」である。この時大河内総理は「自衛隊の弾を国民に向けるわけにはいかない」と発言した。自衛隊はあくまで国防機関である。やむを得ないと反撃を始めていたら大河内総理には失望しか湧かなかったと思うが、この決断で私はこの総理に希望を抱くことができた。

だがやはり政治家というのは形というか体裁にこだわるものなのかもしれない。「ゴジラ」という名前を米国がもたらした際、大河内総理は「名前はあることがいい」といった発言をした。一方で、対策を任された矢口官房副長官は、下から対応策「矢口プラン」を挙げられた際、「ネーミングはともかく」と言った。ここで行政の方策とは違うということを意識づけられる(もっとも、矢口も最後には「ヤシオリ作戦と名付けよう」と言っている。これはいずれ総理になっていくということの発現かと思われる)。こうして名前を持ったゴジラは国民にとって畏怖すべき対象として輪郭がはっきりしてくる。


◯日米安保と国防

120メートルほどの巨体となって稲村ヶ崎から二度目の上陸を果たしたゴジラに抗うべく、大河内総理は住民の避難を確認(報告を信用)した上でついに自衛隊に反撃許可を与える。三沢、立川、富士など自衛隊の総力を挙げても進撃を止められなかったことを受け、ついに安保条約の下、米軍に助力を依頼する。これも米軍の自主判断に被せる形での協力要請となったわけだが、これは日米安保がどれほど心強いものか分かると同時に日本の主導権はやはり米国にあるということを思い知らされるシーンでもある。もちろん日本が持てる最大の実力・自衛隊を以てしても対抗できなかったのだから、米軍に頼るのは善後策として正しいと思うが、このときの米国は大使館に被害が及ぶことを懸念し、住民などお構いなしに空爆を始めようとしている。統制権が総理を離れると日本は自国民を守れなくなってしまうのだ。ただ、だからといって安保条約を否定するのでない。こうした素地を容認せず、真の意味で日本が独立を果たすことが重要なのである。米軍の地中貫通爆弾はゴジラにも大きな損傷を与えたが、その攻撃が引き金となり首都も政府も一瞬にして壊滅してしまった。


◯使いよう

いよいよ多国籍軍が核攻撃でゴジラの討伐に乗り出した。ここで政府は核を使ってでもゴジラをきれいさっぱりなくすか、核を使わず凍結する手段に出るか判断を迫られる。前者だと首都圏に人は長きに亘って住めなくなるし、後者だと確実性もなければゴジラ復活の可能性もある。さて、ゴジラは原発のメタファだというのは既に示した。前者は要は原発の完全廃炉を示す。原発からの電力供給がなくなれば一番電力を必要とする東京は大打撃だ。そして後者、事故のリスクを孕みながらも共存の道を選ぶか。これは矢口の「共存していかなければならない」「まだやることは残っている」などのセリフから窺える。劇中では、リスクはあるものの共存の道を選んだ。言い換えれば、リスクを取ってでも核兵器の使用は絶対的にNOということを世界に訴えたわけである。唐突に挟まれる原爆投下直後の白黒写真がその反核精神を如実に表している。

核爆弾は否定して、核エネルギーは容認する、一見自己撞着のようにも思えるが、結局は使いようなのである。爆弾はそもそも兵器だから置いておくとして、核エネルギーは人類に危害をもたらす可能性があるからNGというのであれば、自動車だって大勢の人が死ぬ道具たり得る。どちらも大いに恩恵を享受してきたはずなのに、原発と聞いただけで否定する人々に対しての揶揄とも取れる。

東日本大震災直後の大学の社会学の講義での話に飛ぶが、その中で「社会とリスク」についての話題が出た。もちろん原発にも言及するのだが、その教授は「私たちは既に飛び立った飛行機に乗っている」とまとめた。着陸の方法には色々あるが、それぞれメリット・デメリットがあるため、我々は納得のいく方法を論じなければならないということである。原発にせよゴジラにせよ既に飛行機は飛び立っているのだ。


◯日本の底力

そして始まったヤシオリ作戦。米軍のサポートがあったものの、その成功は自衛隊や日本の技術の集大成によるものと言っていいだろう。まず凝固剤。多国籍軍の爆撃開始までにきっちり必要数を間に合わせた。納期を守る日本人ならではだ。続いて世界に誇る高速鉄道・新幹線。唐突に「N700系新幹線(無人)」とテロップ表示されたと思ったら東京駅に鎮座するゴジラに突っ込んでいった。正直その発想はなかった。続いて今度は北から南からJR東日本の通勤型車両を使った「無人在来線爆弾」が突っ込んでくる。山手線、京浜東北線、中央線(快速)、東海道線。日本の鉄道文化がゴジラを倒す一打になるとは。足もとを取られたゴジラへの凝固剤の投入、これはやはりこれも建屋内への放水作業だ。クライマックスは涙なしでは見られない。「スクラップアンドビルドでのし上がってきた国」はまだ捨てたもんじゃない。犠牲者も出たあの現場で的確に判断し行動できればの話だが。

そしてラストでしっかりと皮肉も忘れていない。パタースン女史と言葉を交わした矢口氏はしっかりと「米国の傀儡だろ」と言い放った。矢口氏がいつ総理になるか分からないが、アメリカの操り人形であることは否定しないのだった。


◯まとめ

放言。真偽はともかく、シン・ゴジラから感じ取ったことはなんとなく言い終わった。と思う。この映画は政治的な要素を多く孕んでいるため、批判も多いと聞く。だが、それも含めて現代日本が直面してる問題をありのまま投げかけている。自らの政治的思想に反するからと思考を止めず、何とか無事に着陸させる方法を見出していく必要が我々にはある。個の思考から全の思考へ。人類は補完される。庵野監督は好きに作った。さて、我々は…。